岡崎晴明神社参拝記
※【写真】と書いてあるところをクリックすると画像が出ます。それぞれ50〜80KBほどあるので注意!

 今回は愛知県岡崎市に存在する晴明神社を訪ねました。前回の名古屋晴明神社と違い、インパクトの強い画像が混在しています。このページを読んでいらっしゃるあなたはおそらく安倍晴明公ファンであろうと思われますが、ショックを受けないでくださいね。予告はしましたよ。(^^;
 九州に上陸した颱風10号の影響で雨風が突然強くなったり弱くなったりする中、名鉄「東岡崎」駅で岡Kさんと待ち合わせ、昼食を食べた後、まずは唐沢町にあるという最初の晴明神社へ。そう、なんと岡崎には晴明神社が2ヶ所存在するのです!
 駅の中央口(北口)を出て地下道をくぐり抜け、そのまま北へ行き、菅生川(乙川)にかかる明代橋を渡って最初の信号(角に三井海上ビルがあります)を左に曲がり、川沿いに歩いて最初のT字路を右に曲がって少し歩くと、道路の右側に目標の晴明神社があります。
 まずは、正面からの 【写真】 をどうぞ。なんだ、普通の家じゃないかって?とんでもない。よく玄関口の上を見てください。額と〆縄がありますよね?小さくてよくわからない?ではこの 【写真】 をどうぞ。ほら、「晴明神社」とはっきり書いてあります。由来書きが全く無いため、どうしてこんな形で存在しているのか理由はわかりませんが、玄関から覗いてみると確かに祭壇と御賽銭箱は確認できました。しかし、戸が閉まっている以上、部外者が勝手に開けるのもなんですので残念ながら内部の写真までは撮れませんでした。代わりに、この家(としか表現のしようがないんです)の周りをよく観察すると、荒れ放題の垣根にこんなものが 【写真】 。これは間違い無く五芒星。そして石灯籠 【写真】 もありました。あ、この石灯籠では「清明神社」の表記になっていますね。さて、これ以上の長居は無用と、最後に少し離れてこの神社を違う角度から撮ったのがこの 【写真】 。やっぱりどう見てもただの古い家にしか見えませんね、これは。しかも、〆縄が外れかけている所や、庭の荒れ方を見る限りでは、あまり手入れはされていない様子です。残念。
 次に向かったのが本町通3丁目に存在するもう一つの晴明神社です。
 まずは唐沢町の晴明神社から川の方へ戻り、T字路を右に曲がってそのまま川沿いに歩くと、やがて殿橋北の交差点に出ます。余談ですが、この殿橋から西側、つまりこの交差点の信号を渡った所が全国的に有名(?)な岡崎花火大会の会場となっています。さて、この交差点を渡らずに右に曲がり、そのまま道なりに歩いていく(途中、国道1号を横切り、康生北交差点も通りすぎます)と本町3丁目の交差点に出ます。ここまでくれば後少し。頭上のアーケードが途切れた地点、( 【写真】 の「たまじゅう」と書いてあるビルの真下くらいの所)の右手奥に2ヶ所目の晴明神社が存在しています。
 由緒書 【写真】 があるのでまずは読んでみると、この神社も晴明公がこの地に滞在された際に、夢で水の涌き出る場所を知り、井戸を掘り当てたのが最初のようです。後にその御遺徳を偲んで五輪石の一部を納め、神社としたのが由来のようです。ここでも大火の際にこの神社だけ焼け残ったとなっています。その後、戦争中に近くにある菅生神社に御神体を仮遷座し、終戦後またこの地に仮本殿を設置し、遷座した後ちゃんとした本殿を建立したとされています。ひょっとすると唐沢のお社はこの仮遷座の名残なのかもしれませんね。さて次はさっそく本殿に・・・と行きたい所ですが、ちょっとお待ち下さい。そのまま頭上に目をやると、そこにはこんな 【写真】 シロモノが。なんと、晴明神社のアーチ型看板です。すごいインパクト。しかもミスマッチ。
気を取り直して本殿に参拝しようとすると、玄関先に傘立てが置いてあり、中には人がたくさんいるようです。最初は参拝にきた人なのかと思いましたが、それにしては場にそぐわなさそうな年格好をした人も混じっています。どうやら町内会か何かの寄り合いとして使用されている様子です。晴明公が湧き出させたと言う井戸も見たいのですが、さすがにそんな中に入りこむわけにもいかず、ちょっと離れた所から 【写真】 を1枚。残念ながらここでも参拝はできませんでした。ううう、くやしいよう。
 結局、岡崎の晴明神社は一方は家の中、もう一方は集会所と、どちらも他に類を見ない、非常にユニーク(?)なお社であることがわかりました。しかし、集会所として使われているというのも、地域に密着していると考えるべきなのでしょうが・・・、大変複雑な気分でした。なお、戦時中に仮遷座したとされる菅生神社にも行ってみましたが、残念ながら晴明公の痕跡は残っていませんでした。

 後日、名古屋市立鶴舞中央図書館にて関連資料を見つけましたので、記載しておきます。

晴明社

 晴明社は本町十九番地に在り、境内二十八坪四合を有す、往昔此裏地続の藪に古碑ありて、阿部晴明の五輪と伝えたるが、寛政十二年(1800年)九月三十日、材木町の人阿部理八、此地一宇の神祠を建立し、右五輪石の一部を納め、以て阿部晴明の霊を祀る。是当社の起源である。

 尚、唐沢町に晴明屋敷と云える所あり、弘化三年(1846年)七月廿八日、其地にも一社を建て、五輪の一部を納めて晴明を祀る。
三河国名勝志に曰く、晴明屋敷菅生の郷にありと云う、今唐沢町にあり。昔日天文博士阿部晴明、諸国漫遊の歴の時、此地に居住の事あり、今唐沢町に晴明屋敷というあり、按ずるに、古えの唐沢街というは横街つづき川岸にいたる間をいう。其頃は川岸を総て菅生と唱えしと聞けば、晴明屋敷も横街に在ぬべし、唐沢町今の地に移る時晴明屋敷の名も持来るなるべし、今も横街に晴明の社あり、これ其遺跡なり云々。

 其後天保三年(1832年)八月廿日、岡崎城下大火の時、同町全焼に及びしも、此社のみ残れりと云う。同六年九月社殿を再建し、同月十五日遷宮神楽あり、其後明治十一年九月、同町日光稲荷津島社を合殿に移し、又殿宇を改造す、今の社殿が是である。今社内に晴明水壺及土製燈籠を蔵す、境内に晴明社碑並に井戸あり、此井戸は晴明井と称し岡崎七つ井の一つである。

 文中の横街とは現在の本町通のことです。唐沢町と本町(横町)についての文献によると、元々の唐沢町は現在の本町通(横町)にありましたが、移転して現在の位置になったとされています。二番目の文献中「唐沢町に晴明屋敷と云える所あり」とされているのが現在の本町通に存在する晴明神社のようです。唐沢町が現在の位置に移転した際に、晴明屋敷に存在した九輪の塔のうち、上の三輪だけを運んで祭ったのが現在の唐沢町晴明神社の由来という文献もありますが、真偽の程はさだかではありません。どちらにせよ、唐沢町の晴明神社は旧唐沢町から移転してきた時に建立されたようです。
 なお、参考までに岡崎七つ井の名称と場所を記載しておきます。うち二ヶ所は晴明公に関わる伝聞が残されています。残念ながら現在では痕跡を留めていない所もあるようです。

岡崎七つ井(抜粋)

・龍ヶ井 岡崎城本丸の内
・産湯の井 現在の岡崎市立図書館の西方
・亀井 六地蔵町、もと淨専寺の西裏に存在、現在は埋没して跡は残っていない。
この井戸も晴明公に関わる伝聞が残されています。

父老伝えて云う、天文博士安倍晴明のこの東側に僑居せる時、この井を穿ち神咒を以てその不潔を除いて霊泉としたものであると

・晴明井 本町通晴明神社の前
いうまでもなく、本町通の晴明神社の起源となった井戸です。文献にはこう記されています。

昔、晴明この井を鑿り、病に悩む者にこの水を興えて飲ましむるに必ず癒えたという。晴明と井戸。疫病と井水との深刻なる関係を語るものである。今もこの水甚だ清冽、人争って汲む。

後日、再び本町晴明神社を訪れる機会があり、ようやく晴明井の 【写真】 を撮ることができました。

・矢落井 伊賀町明願寺境内
・河鹿井 能見町(現在は能見通)覚恩寺境内に在った
・玉の井 魚町大林寺境内に在った

以下に、この記事を執筆する際に参考・引用した文献を挙げておきます。

書籍名
著者名 出版年 出版社 ページ

の順に記載されています。

岡崎市史 第3巻
岡崎市役所編 1972 名著出版 P195〜202,246-252

岡崎市史 第7巻
岡崎市役所編 1972 名著出版 P208〜210

岡崎市史 第8巻
岡崎市役所編 1972 名著出版 P274〜277

2002.4.9 追記

岡崎公園〜菅生川の花見ついでに唐沢町の晴明神社にふらりと寄ってみると・・・

【衝撃の写真その1】  【衝撃の写真その2】

・・・ある意味、ますます地元に密着している晴明神社なのでした。
なお、石灯籠が新しくなり、「晴明神社」の表記になっていました。

 どうでしたでしょうか?御覧になった皆さんの感想をお待ちしております。



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